だれのチャレンジ?

アドベンチャー教育の現場で、参加者同士が「助け合う」場面をたくさん見ます。
人は本能的に他者と協力する感覚を持っているというのは、本当にそうだなぁと思います。

とはいえ、参加者同士が「助け合い過ぎる」場面もたくさん見ます。

たとえば、ハイチャレンジで命綱をつけて高さ10mのクライミングウォールを登るとき。
命綱を持つビレイヤーが、ついつい「登らせてあげたくなる」感覚。

頼まれてもいないのに、「そこ!右足上げて!そうそう!次、左手上のやつ掴めるよ!!」というアドバイス。
もしくは、落ちそうになるクライマーを勝手に命綱を引っ張って持ち上げようとしてみたり。

登らせてあげたい!成功させてあげたい!という一心から。

僕はクライマーではありませんが、ロッククライミングで「ムーブに関することは言わない」というのを聞いた事があります。
ボルダリングは、一人で(みんなでのときもあるけれど)課題解決(謎解き)をしているわけで、「次は右手で掴んで!そのまま左足上げて!」と、謎解きの手がかりの指示を出され過ぎると凹みます。

視覚障害者のクライミングを通したユニバーサルな社会作りに取り組む、「NPO法人モンキーマジック」のクラミングに参加をしたとき、「視覚障害者も改題解決を楽しみたい」という話を聞いて、そりゃそうだ!と思いました。

見えない人に対して、クライミングホールドへの方向、距離、形は伝えても、「どうやって登るか?」は伝えないそうです。

 

というか、「答え」を教えないというのが当たり前の支援でありたい。
むしろ、支援というよりもその人のチャレンジを尊重する人でいたい。

その人のチャレンジしている気持ちに共感していれば、無言で命綱を持っていたっていい。

 

学校の研修プログラムでも、ついつい教師が

「ほら、がんばれ!!登れ〜!!」

「あきらめんな!」

「そう!ロープもって〜!!そこでグッと上げる〜!!そう!!」

と、心の籠った激励、という名の「指示・命令」が飛ぶ場面にたくさん遭遇します。
そんな時は、そんな先生の横にこっそり行って、

「今、だれのチャレンジですか?」と聞いてあげよう。

アドベンチャー教育 feat. ファシリテーショングラフィックス

先日のゲーム祭りで、大先輩でありアドベンチャー仲間のKAIと一緒に2時間半の活動をファシリテートさせてもらう機会がありました。
試してみたかったコミュニケーションゲームやら、無条件にバカバカしい遊びやらを大人70人でワイワイと。笑い泣き万歳☆

その時間をヤガイカツダーの仲間であり、湘南PACEの代表の一人である「ぎょ」くんにグラフィックを描いてもらいました。

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ファシリテーション・「ぎょ」ラフィック

いやーこれホントすごいんです。

前にも、彼にアドベンチャー教育プログラムを使ったファシリテーション研修会を2時間描いてもらったことがあります。
アドベンチャー教育フェスでも対談を描いてもらったっけ。

途中や最後に活動を振り返るときに、グラフィックを見た瞬間に、そのときの体験に記憶がシュッ!っと戻るんです。
「そうそう!このときにさ・・・」
「あー、あったね!こんなこと!」
「このときのことが、ココにつながったよね」

などなど。
体験の振り返りが、参加者主体で進んでいくきっかけを作ってくれる感じ。
そこまで描いてきたことが、一気に参加者に還元される感覚。

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NPO法人夢職人でのファシリテーション研修のふりかえり

「絵はだれにでも伝わる言語」

 

確かに!

前回は、ファシリテーターの言葉がけ立ち振る舞いなど意図してやっている支援の言動を拾って描いてもらいました。
今回のゲーム合宿ではゲーム(アクティビティ)のやり方とバリエーションを中心に描いてとリクエスト。
しかも、前日に学んだSL理論(Situational Leadership)を関連づけて、ファシリテーターの指導と支援が減って、参加者に権限が委ねられていく様子や言動を意図的に拾って描いてくれたことで、参加者にとってさらに学びの深まるきっかけを作ってくれました。

10人程度のグループが5-6コあったため、活動の説明を全体でしながら、一つのグループにモデルになってもらいながらルール説明をしていたときに、
1)一回目 → 「じゃあ、このグループモデルになってくれますか?」
2)二回目 → 「どのグループか、モデルになってくれるところありますか?」

と、ファシリテーターが指示的にグループを選ぶ vs. 参加者にどのグループがモデルになるかを委ねる
のような、些細な違いだけれど、ファシリテーターのリーダーシップスタイルを変化させているところを、ぎょが丁寧に言葉を拾って意味付けしてくれていたり。
(この瞬間は僕は無意識にやっていたのですが・・・)
ファシリテーターの振り返りと、意識アップにもとても有効だと思います。

グラフィッカーが何を拾って描くかによっては、学びをコントロールしてしまうほどの影響力があるからこそ、主観を中立の立場で描くことは難しいことだと思います。
場が見えていないと描けないはずなんです。まさに場のC0ファシリテーター!
僕も以前、一般社団法人 サステイナビリティ・ダイアログという団体のグラフィックファシリテーションの研修を受けたことがあります。

中学のときに、美術の先生に「お前に絵は無理だ、彫刻でもやってろ」と勇気付けられ、木を削ることは大好きになりました。その代償として、絵を描くことに苦手意識を持ち続けていた自分でも描ける!ということを学んだ時間でした。

アドベンチャー教育プログラムとファシリテーショングラフィックのコラボレーション、もっともっと試してみたいです☆

Special Thanks to Gyo.

 

2016年ゲーム合宿

毎年恒例の新年学びの場。
僕にとっては、新年に仲間と出会って、笑って、エネルギーを充電する日でもあります。初めましての人、懐かしい人、二日目の終わりにはみんながハグできちゃうくらいの間柄になれる不思議な空間。

学校の先生を始めとして、教育に関わる人が70-80人集まって、「ゲーム」をたくさんやってみる中で、毎回様々な学びがあるんです。

「ゲーム」=遊び

と言ってみるけれど、それを教育現場では目的をもった「アクティビティ」として使うことだってできる。

でも、FUNN(Functional Understanding is Not Necessary = 機能的な理解は不必要な楽しさ!!)を大切にしている集まり。
目的やねらいを持って活動をすることも大切だけれど、無条件に楽しく活動するということの大切さを忘れちゃいけないと思い出させてくれる場です。

ということで、二日間たくさん動いて、たくさん笑いました。
大人たちが真剣にくだらない遊びをやって、涙を流しながら笑いあえるということが素晴らしいなぁ。


夢中になって遊んでいる瞬間は、心が「今・ここ」にいる状態。
「遊びの目的は行為そのものの中にある」ということで、きっとその行為をすることで人は快の感情を感じているはず。

自分が好んでその活動(遊び)をするのだから、自分がその世界の中心にいられる。そして、その世界は自分が想像し、意思決定できる。

遊びに没頭できる子っていいなぁと思うわけです。
反対に、大人や周囲に気を使ったり、集中できずに「遊べない子」もたくさんいるわけで。

アドベンチャー教育系の遊びは、基本的「集団での活動」。
誰かと一緒になって、真剣に夢中になって遊べるということは、その人間関係にはきっと「安心・安全」を感じられるということなんだろうなぁ。

だれかと一緒になって、遊びに夢中になれるということは、環境や周りに対して安全を感じて、さらにその人との関係性にも安心を感じられるということ。

それが、グループで一緒に遊べる・・・ってすごいことだなぁと思います。そして、その世界の中心に立って、自分たちで世界を創造して、判断して、決定して、行動する経験は、きっと自主性を育てることにつながっていくはず。

なんて考えると、「遊び」の持つ力は偉大だなぁと思います。

そんな「安心・安全」な環境の中に、個人のありたい姿や獲得したいスキルへの目標設定があり、集団を育てる行動規範があり、体験を振り返って学ぶサイクルがあり、ファシリテーターという主役に寄り添った支援者がいて・・・
夢中で遊ぶ中に起こっているプロセスに、意図的に学びを見つけていくのがアドベンチャー教育なんだと思っています。

おバカに遊ぶ大人たちの集まりだけれど、結構哲学的な、崇高な学びをしているんじゃないか!と思うわけです。

 

つづく・・・