自分の考えを述べるということ

久しぶりのブログです。
今日「子どもと保育実践研究会」の夏季全国大会に参加をして、ふとブログでのアウトプットをしたくなりました。

もともと僕は誰かに自分の考えを伝えるということが苦手でした。

たとえ自分にとって素晴らしい情報も、相手が必要としていなければそれは「余計なお世話」になりかねない。
健康情報や、ライフスタイルなど、自分が信じていて、心地よく過ごせていることで、メディアの情報が「嘘」かもしれないこと・・・そんなことを相手に薦めることにも抵抗があります。

それは、宗教でも、価値観でも、真実でも、幸せのツボでも、スマホのキャリア選びでも。
よかれと思って人に薦めても、選ぶのはその人。

Twitterで、とあるイラストレーターの方が「アドバイス罪」なんていう面白いことを言っていたけれど、まさにそんな感じ。
求めてもいないアドバイスって、世の中にはたくさんあって。
「絶対◯◯がいいよー!」って、結構無責任。
選ぶのは本人なんです。

ファシリテーターという役割も、「アドバイス」とか「教える」ということに価値を見出せない要因の一つ。
参加者・学習者が主体で学んでほしい=ファシリテーターはきかっけを作る黒子のような存在でありたい、なんていうことを信じていると、コミュニケーションやチーム作りについて、何かを直接的に語ることを自然と避けてしまいます。
体験の力を信じて、その経験の中で学んでほしい。もしくは、集団の中での気づきの共有から学び合ってほしい。その時間、その体験の中でだれも気が付かないならば、それはその個人やグループにとって「タイミング」ではなかったということだと思っています。

とはいえ、もちろん自分が伝えたいことを伝える方法はたくさんあって、

「ちょうど◯◯で読んだんだけど・・・」(本やニュースを介して伝える)
「◯◯という人が、こんなことを言いました」(偉人や知人の言葉として伝える)
「どう思う?それってこういうこと?」(問いかけ、質問で伝える)
「昔むかしあるところに・・・」(物語で伝える)
etc…

なんていうことを繰り返していると、ふと自分の考えや価値観を自分の言葉で語る機会が少ないのかもしれないなぁと。

3年前、コロラドのAssociation for Experiential Education に参加をしたときに、Prescott College教授に飲みながら教えてもらったこと。

AEE 41st Conference 振り返り〜その③〜

Knowing < Understanding < Thinking
自分で考えることの大切さを、ふと忘れていました。

それに自分が感じていることFeelingも加えたい。

今は、ありがたいことに多様な教育の現場で、多様な人たちと仕事をする機会に恵まれています。
この夏の1ヶ月だけでも、自分の中での気づきや学びはたくさんありました。

ノートに書いたり、PCでメモしたりしていることも、忘れっぽい性格のためすぐに忘れてしまう。
風化する前に、人に伝えるように文章にしてみたい。

自分が見聞きした情報や調べた情報を書くのでなく、人に「これがいいよ」と伝えるのでもなく、ただただ自分が考えていること、感じていることを文章にしてみたい。

ということで、気まぐれにブログ再開です☆

 

 

アドベンチャー教育 feat. ファシリテーショングラフィックス

先日のゲーム祭りで、大先輩でありアドベンチャー仲間のKAIと一緒に2時間半の活動をファシリテートさせてもらう機会がありました。
試してみたかったコミュニケーションゲームやら、無条件にバカバカしい遊びやらを大人70人でワイワイと。笑い泣き万歳☆

その時間をヤガイカツダーの仲間であり、湘南PACEの代表の一人である「ぎょ」くんにグラフィックを描いてもらいました。

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ファシリテーション・「ぎょ」ラフィック

いやーこれホントすごいんです。

前にも、彼にアドベンチャー教育プログラムを使ったファシリテーション研修会を2時間描いてもらったことがあります。
アドベンチャー教育フェスでも対談を描いてもらったっけ。

途中や最後に活動を振り返るときに、グラフィックを見た瞬間に、そのときの体験に記憶がシュッ!っと戻るんです。
「そうそう!このときにさ・・・」
「あー、あったね!こんなこと!」
「このときのことが、ココにつながったよね」

などなど。
体験の振り返りが、参加者主体で進んでいくきっかけを作ってくれる感じ。
そこまで描いてきたことが、一気に参加者に還元される感覚。

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NPO法人夢職人でのファシリテーション研修のふりかえり

「絵はだれにでも伝わる言語」

 

確かに!

前回は、ファシリテーターの言葉がけ立ち振る舞いなど意図してやっている支援の言動を拾って描いてもらいました。
今回のゲーム合宿ではゲーム(アクティビティ)のやり方とバリエーションを中心に描いてとリクエスト。
しかも、前日に学んだSL理論(Situational Leadership)を関連づけて、ファシリテーターの指導と支援が減って、参加者に権限が委ねられていく様子や言動を意図的に拾って描いてくれたことで、参加者にとってさらに学びの深まるきっかけを作ってくれました。

10人程度のグループが5-6コあったため、活動の説明を全体でしながら、一つのグループにモデルになってもらいながらルール説明をしていたときに、
1)一回目 → 「じゃあ、このグループモデルになってくれますか?」
2)二回目 → 「どのグループか、モデルになってくれるところありますか?」

と、ファシリテーターが指示的にグループを選ぶ vs. 参加者にどのグループがモデルになるかを委ねる
のような、些細な違いだけれど、ファシリテーターのリーダーシップスタイルを変化させているところを、ぎょが丁寧に言葉を拾って意味付けしてくれていたり。
(この瞬間は僕は無意識にやっていたのですが・・・)
ファシリテーターの振り返りと、意識アップにもとても有効だと思います。

グラフィッカーが何を拾って描くかによっては、学びをコントロールしてしまうほどの影響力があるからこそ、主観を中立の立場で描くことは難しいことだと思います。
場が見えていないと描けないはずなんです。まさに場のC0ファシリテーター!
僕も以前、一般社団法人 サステイナビリティ・ダイアログという団体のグラフィックファシリテーションの研修を受けたことがあります。

中学のときに、美術の先生に「お前に絵は無理だ、彫刻でもやってろ」と勇気付けられ、木を削ることは大好きになりました。その代償として、絵を描くことに苦手意識を持ち続けていた自分でも描ける!ということを学んだ時間でした。

アドベンチャー教育プログラムとファシリテーショングラフィックのコラボレーション、もっともっと試してみたいです☆

Special Thanks to Gyo.

 

2016年ゲーム合宿

毎年恒例の新年学びの場。
僕にとっては、新年に仲間と出会って、笑って、エネルギーを充電する日でもあります。初めましての人、懐かしい人、二日目の終わりにはみんながハグできちゃうくらいの間柄になれる不思議な空間。

学校の先生を始めとして、教育に関わる人が70-80人集まって、「ゲーム」をたくさんやってみる中で、毎回様々な学びがあるんです。

「ゲーム」=遊び

と言ってみるけれど、それを教育現場では目的をもった「アクティビティ」として使うことだってできる。

でも、FUNN(Functional Understanding is Not Necessary = 機能的な理解は不必要な楽しさ!!)を大切にしている集まり。
目的やねらいを持って活動をすることも大切だけれど、無条件に楽しく活動するということの大切さを忘れちゃいけないと思い出させてくれる場です。

ということで、二日間たくさん動いて、たくさん笑いました。
大人たちが真剣にくだらない遊びをやって、涙を流しながら笑いあえるということが素晴らしいなぁ。


夢中になって遊んでいる瞬間は、心が「今・ここ」にいる状態。
「遊びの目的は行為そのものの中にある」ということで、きっとその行為をすることで人は快の感情を感じているはず。

自分が好んでその活動(遊び)をするのだから、自分がその世界の中心にいられる。そして、その世界は自分が想像し、意思決定できる。

遊びに没頭できる子っていいなぁと思うわけです。
反対に、大人や周囲に気を使ったり、集中できずに「遊べない子」もたくさんいるわけで。

アドベンチャー教育系の遊びは、基本的「集団での活動」。
誰かと一緒になって、真剣に夢中になって遊べるということは、その人間関係にはきっと「安心・安全」を感じられるということなんだろうなぁ。

だれかと一緒になって、遊びに夢中になれるということは、環境や周りに対して安全を感じて、さらにその人との関係性にも安心を感じられるということ。

それが、グループで一緒に遊べる・・・ってすごいことだなぁと思います。そして、その世界の中心に立って、自分たちで世界を創造して、判断して、決定して、行動する経験は、きっと自主性を育てることにつながっていくはず。

なんて考えると、「遊び」の持つ力は偉大だなぁと思います。

そんな「安心・安全」な環境の中に、個人のありたい姿や獲得したいスキルへの目標設定があり、集団を育てる行動規範があり、体験を振り返って学ぶサイクルがあり、ファシリテーターという主役に寄り添った支援者がいて・・・
夢中で遊ぶ中に起こっているプロセスに、意図的に学びを見つけていくのがアドベンチャー教育なんだと思っています。

おバカに遊ぶ大人たちの集まりだけれど、結構哲学的な、崇高な学びをしているんじゃないか!と思うわけです。

 

つづく・・・