支援の選択肢

「子どもの支援」をテーマに、ある保育園の研修を担当させていただいたときのこと。

一人の男性保育士が、「木登りで、子どもに『おしり押して!』と言われると悩む」ということを話してくれました。

そこに悩めるって素晴らしいことだと思います。

で、結局のところ、子どもや状況によるので答えはないのだと思いますが、自分の中でどんな選択肢があるのかを考えておくことって大切。

・子どものおしりをしっかり押して登らせて上げる?
・とりあえず木の真下に立って、落下したら受け止めてあげる準備をする?
・「大丈夫。◯◯ならできると思うよ」と勇気づける?
・「両手で押す?それとも片手?それとも小指だけ?」と押す選択肢を渡す?
・「本当に押してほしいの?それとも一人で登りたいけど登れないと思っているの?」と確認をしてみる?
・押もせず、近くにもいかずに見守る?
etcetc…

 

「一人で登らせたい」、「成功体験をさせたい」というのは、大人の願い。

「とりあえず登りたい」、「自分で登れるようになりたい」、子どもはどんな願いを持っているのか?

となると、やっぱりチャレンジャーの目標=「どこまでいきたいか?」「どうやっていきたいか?」を知ることなしに、支援の形を決めるのは難しいと思うわけです。

だから、ついつい「どうしたい?」と聞いてしまいます。

登れないことは失敗ではなく、試行錯誤のプロセスの一部だと考えられる支援者でありたいし、子どもたちにもそう考えられるようになってほしい。

今日は手伝ったから登れた、明日は一人で登れるかもしれない、そんなことが起こるかもしれない。

 

だれのチャレンジ?

アドベンチャー教育の現場で、参加者同士が「助け合う」場面をたくさん見ます。
人は本能的に他者と協力する感覚を持っているというのは、本当にそうだなぁと思います。

とはいえ、参加者同士が「助け合い過ぎる」場面もたくさん見ます。

たとえば、ハイチャレンジで命綱をつけて高さ10mのクライミングウォールを登るとき。
命綱を持つビレイヤーが、ついつい「登らせてあげたくなる」感覚。

頼まれてもいないのに、「そこ!右足上げて!そうそう!次、左手上のやつ掴めるよ!!」というアドバイス。
もしくは、落ちそうになるクライマーを勝手に命綱を引っ張って持ち上げようとしてみたり。

登らせてあげたい!成功させてあげたい!という一心から。

僕はクライマーではありませんが、ロッククライミングで「ムーブに関することは言わない」というのを聞いた事があります。
ボルダリングは、一人で(みんなでのときもあるけれど)課題解決(謎解き)をしているわけで、「次は右手で掴んで!そのまま左足上げて!」と、謎解きの手がかりの指示を出され過ぎると凹みます。

視覚障害者のクライミングを通したユニバーサルな社会作りに取り組む、「NPO法人モンキーマジック」のクラミングに参加をしたとき、「視覚障害者も改題解決を楽しみたい」という話を聞いて、そりゃそうだ!と思いました。

見えない人に対して、クライミングホールドへの方向、距離、形は伝えても、「どうやって登るか?」は伝えないそうです。

 

というか、「答え」を教えないというのが当たり前の支援でありたい。
むしろ、支援というよりもその人のチャレンジを尊重する人でいたい。

その人のチャレンジしている気持ちに共感していれば、無言で命綱を持っていたっていい。

 

学校の研修プログラムでも、ついつい教師が

「ほら、がんばれ!!登れ〜!!」

「あきらめんな!」

「そう!ロープもって〜!!そこでグッと上げる〜!!そう!!」

と、心の籠った激励、という名の「指示・命令」が飛ぶ場面にたくさん遭遇します。
そんな時は、そんな先生の横にこっそり行って、

「今、だれのチャレンジですか?」と聞いてあげよう。

他者からの視線

自分がファシリテーターとして集団の前に立つときに、自分の立ち振る舞いや言葉が「相手からどう映っているいるか」ということを気にすることがあると思います。

僕は子どものころから、他人の目が気になる性格でした。
自分の言動は、人から見ておかしく見えていないだろうか?間違っていないだろうか?

そんなことを考えて集団の中で関わっている自分は、どうしても一歩引いた関わりでした。

 

もちろん、まだまだそんなことが気になりますが、この数年で少しずつ手放せている感覚があります。
ファシリテーターとして、一人の人間として。

アドベンチャー教育の研修で、スタート時に子どもたちの前に立って自己紹介をする場面があります。
あれ、緊張してたんですよね。
やっぱり第一印象は大事にしたいと思うと「笑顔でいよう!」みたいなことを考えてみたり。子どもたちにとって好印象でいたい・・・なんて考えていました。

ワークショップ通訳でも、訳の言葉に詰まって参加者と視線が合うと参加者がどう思っているかをつい考えてしまって、次の訳が遅れたりすることがありました。

今年はそんなことがまったくなく、「今ここ」英語を話すメインファシリテーターの言葉に集中できました。結果、英語力は一年前と変わらないけれど、間違いなくパフォーマンスは上がった感覚があります。

それは年齢を重ねたから。
きっとなんとかなるという自信がでてきたから。
ライブ感の中で、臨機応変にことが進む流れに身を任せられるようになったから。

 

“Standing in the Fire”というワークショップで、僕が尊敬しているファシリテーターの一人佐々木薫さんに教わったこと。

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Standing in the Fireのテキスト。おすすめ!

「自分がどう見られているか?」→「この人はどんな人だろう?」と視点を変えてみること。

これは、僕にとってピッタリはまった考え方でした。

自分がどう見られていようとも関係ない。
学ぶのは目の前にいる人であって、ファシリテーターはそれを支援する人。
相手に集中して興味を持って関わると、自分がどう見られているかなんて考えるヒマはない!(笑
体験が持つ力、ロープスコースやアクティビティの力を信じること。
参加者の力、グループの力を信じること。
真摯に、願いを持って関われば、相手との関係性も作れるはず。
それでダメなら、今はそのタイミングではなかったと手放すこと。

利他的に考えていくと、自分がどう見られているかということは、どうもそんなに大切ではないんだろうな。

自然な姿で、ありのままの自分で、いつでもありたいものです。
自分の中の 思い- 考え – 行動を一致させようと努めること。
弱い自分も強い自分も、そのままでOKと思えること。
そういふものにわたしはなりたい☆